ドライゼ銃


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ドライゼ銃(ドライゼじゅう、独: Dreyse Zündnadelgewehr, 英: Prussian Model 1841)は、1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。
この銃はプロイセンの銃工であったヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼ(ドイツ語版)によって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。
先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが国土拡張に転じたことによって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。
ドライゼ銃は、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構、および弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、撃針銃、旧日本軍の公文書にはドイツ語の Zündnadelgewehr の発音「ツュントナーデルゲヴェーア」から“普式ツンナール銃”と記されている。
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ドライゼ銃 wikipedia
目次
1.プロイセン王国
2.特徴
3.画像
4.動画




プロイセン王国

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プロイセン王国(プロイセンおうこく、独: Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
プロイセンの語源となったプルーセンはドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利した。そのときプロイセンを盟主とするドイツ帝国ができた。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった。
プロイセン王国 wikipedia 

特徴

1836年に完成し、1841年にプロイセン軍の歩兵銃として採用された。ドライゼ銃は、弾丸と黒色火薬と雷管を紙で一緒に包んだ弾薬を装填し、その底を細い針(ニードル)で突いて弾丸を発射するもので、単発式とはいえ先込め式から脱却していた。

 紙製薬莢と後装式ボルトアクションによる圧倒的な連発性能で、前装式小銃を装備した他国歩兵を圧倒し、プロイセン王国を勝利に導く……と思われたが、実際はあまりにも先進的で当時は逆に注目されなかった。  だが、1860年代のプロイセン王国による国土拡張によって、幾多の戦場でプロイセン軍勝利の立役者となり、その名声を全世界に轟かせた。

 明治時代の日本にも「普式ツンナール銃」の名で輸入されたが、世界初のボルトアクション式ライフルということで数々の問題を抱えており、1866年にフランスが採用した本銃改良型のシャスポー銃などによって、ドライゼ銃の絶対的優位は失われていった。
プロイセン王国 ドライゼ銃 / Dreyse Zündnadelgewehr (Dreyse needle gun) 【小銃】 MEDIAGUN DATABASE 


画像

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動画

 Zündnadelgewehr
  

 Shooting Dreyse M 62