ベルグマンMP18


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ベルグマンMP18は、第一次世界大戦末期にドイツ帝国で開発された短機関銃である。1918年3月のドイツ軍春季大攻勢用の決戦兵器として製造された。第二次世界大戦頃までに登場した短機関銃の多くはMP18のデザインから強い影響を受けているため、短機関銃の祖形とされる 。

MP18は小銃同様の木製銃床を備えており、銃身には全体を覆う放熱筒が取り付けられていた。この放熱筒後方にボルトとリコイル・スプリングを収納する機関部が設置されている。
作動方式はシンプル・ブローバック方式で、当初から短距離での使用が想定されていたため、長距離での命中精度は度外視、オープン・ボルト状態からの射撃でフルオートのみという後の短機関銃のコンセプトを全て実現したデザインとなっている。なお本銃は発射速度が350-450発/分と比較的低く、引金の引き方次第でバースト射撃やセミオート射撃も容易であった。
シュマイザーが担当した当初設計では専用のボックス・マガジンを使用する予定だったが、既に多数の在庫を有した砲兵用ルガーP08ピストルと共通の32連スネイル・マガジンを使用する事が要求され、これに合わせてマガジン挿入口は傾斜したものに変更された。32連スネイル・マガジンは装填に時間がかかる点が欠点であり、また従来の据付式機関銃の設計を踏襲した左側面にマガジンを装填して給弾する方式も銃のバランスを悪くしたが、当時の機関銃に比べれば格段に軽量、当時の小銃や拳銃に比べれば格段に高火力であり、ほぼドイツ軍が求めていた要求を満たしたものだった。
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MP18 wikipedia

目次
1.ドイツ帝国
2.特徴
3.画像
4.動画



ドイツ帝国

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ドイツ帝国(ドイツていこく、ドイツ語: Deutsches Kaiserreich)は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。普仏戦争において、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立した。第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して崩壊した。
ドイツ帝国 wikipedia 

特徴

第一次大戦中のヨーロッパ戦線では、塹壕戦の膠着状態を打開するため、各国が数々の新兵器を戦線に投入し、しのぎを削っていた。その中でドイツが着目したのが、狭い塹壕内でも取り回しが良く、接近戦に強い『短機関銃』だった。
 軍はベルグマン社にこの新兵器の開発を依頼。同社の社長テオドール・ベルグマンとルイス、ヒューゴのシュマイザー親子、およびオットー・ブラウスベッターら研究チームによって、1917年に完成したのがこの『MP18短機関銃』だった。
 作動はオープンボルト式のストレートブローバック。のちのMP5が登場するまでの短機関銃の基本的なメカニズムを、MP18はこのとき既に備えていた。当時としてはスタンダードな木製の曲銃床でレシーバーを支え、マガジンはその左側面から装填する構成とされた。マガジンはP08のものが共用可能で、32発装弾のスネイルマガジンも使用できた。

 完成したMP18は、1918年3月21日の大攻勢『ミカエル作戦』に投入される。大火力のMP18と手榴弾、ガスマスクで武装した『シュツルム・トルッペ(突撃部隊)』の猛威は連合軍を震え上がらせ、一時は戦線を60kmも突破することに成功した。
 しかし、結局『ミカエル作戦』は失敗。敗因は補給の欠乏と歩兵の機動力不足にあったものの、ドイツ軍は「短機関銃は役立たずだ」と誤った判断を下してしまう。一方で、その猛威を目の当たりにした連合国はMP18を正しく評価し、ベルサイユ条約の中で、ドイツでの短機関銃の製造と同国軍への配備を禁止した。これにより、MP18は戦後全てが軍から払い下げられて、もっぱら警察用として使用されることとなった。

 こうしてMP18は国内での評価には恵まれなかったが、他の多くのドイツ軍兵器と同じく、後の各国の短機関銃開発に大きな影響を与えた。1920年には、スイスのシグがMP18のコピーモデル『シグM1920』をライセンス生産し、日本へも輸出が行われていた。また、これとは別に本家MP18も日本に輸入されており、後述のMP28、MP34と共に当時の日本陸軍で『ベルグマン自動短銃』、海軍で『べ式自動拳銃』の名で使用された。後の『一〇〇式機関短銃』が試作された際にも、MP18が参考とされている。
ベルグマン MP18 / Bergmann MP18【短機関銃】 MEDIAGUN DATABASE 


画像

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動画

 MP - 18 BERGMANN